さて、報道などですでにご存知の方も多いと思いますが、先日フランスの極めて重要な文化遺産「ノートルダム大聖堂」の一部が火災によって焼失するという出来事がありました。
このニュースはフランスのみならず世界中で衝撃をもって受け止められ、歴史や文化に関心のある人々が事故を惜しみました。
筆者も歴史好きの一員として、やはり残念な出来事だったと考えています。
ただ、事故の第一報を聞いた時は「テロなのではないか」という疑いをもっていたこともあり、不謹慎ですが「単なる事故であった可能性が高いのは不幸中の幸い」とも感じています。
実際、今のフランスで文化財がテロによって破壊されでもすれば、一気に右傾化が加速するのは目に見えているからです。
また、筆者はテロの心配と同時にこのようなことを考えました。
「日本で焼失した文化財はどれくらいあるのだろうか」と。
実際、日本の伝統的な文化財には木造建築のものが非常に多く、常に焼失の危機を抱えています。
そこで、ノートルダム火災をきっかけに「近現代日本における文化財焼失の歴史」を調べてみることにしました。
すると、筆者の推測通りさまざまな文化財が火災に見舞われているという事が分かってきたので、この記事では火災の様子や被害状況などを詳しく解説していきます!
なお、調査の対象は戦後に発生した事故のみになっています。ご了承ください。
1.日本における文化財火事・焼失と修復の歴史
1.法隆寺金堂壁画の火事による焼失
画像出典:https://www.asahi.com/articles/ASKDF3V2MKDFPLZU002.html
まだ戦後間もない時期の1949年。
日本において実に1000年以上の歴史をもつ壁画が炎上し、その美術的価値を失ってしまいました。
その壁画とは、法隆寺金堂の外壁に描かれた仏教壁画です。
法隆寺金堂壁画は文化財保護の意識が浸透してきた明治初期から保護の対象と認識され、壁画の劣化を防ぐためにさまざまな対策が取られていました。
その対策の一環として、1940年より一流の画家を総動員して壁画を模写し、その劣化に備えるという事業がスタートします。
しかし、この模写は第二次世界大戦の戦局激化に伴い中断され、戦後に再開されるものの1949年の火災によって中断を余儀なくされました。
この火災原因は長らく不明とされていましたが、現代の見解では模写作業に用いられていた電気座布団の漏電によるものであると推定されています。
この出来事は国内外に大きな衝撃を与え、ロンドンタイムズの日本支局長が「日本は文化財の保護が下手でデタラメだ」と発言したほか、消防庁長官と文化庁長官が即座に対策を練ることを余儀なくされました。
こうして一部が焼け焦げた法隆寺は1954年にふたたび一般公開されますが、かつて壁画が埋められていた面は空白の状態でした。
また、この事故をきっかけに1950年には文化財保護法が成立し、国全体に文化財保護の意識が広まります。
ちなみに、壁画自体は1967年から始められた模写作業によって復元され、現在は元のように壁画が飾られています。
この事故は戦後最大の文化財毀損事故と認識されており、美術史の「負の歴史」として記憶されています。
2.三度にわたる松山城の放火火事による焼失
画像出典:https://www.iyokannet.jp/feature/castle/matsuyamajo
愛媛の観光名所である松山城は、戦前から何かと火災に見舞われる「薄幸の城」です。
まず、1933年には「松山城放火事件」により放火の被害に遭い、大天守以外の大部分が焼失しました。
また、1945年にはアメリカ軍の空襲に遭い天神櫓など11棟を焼失しています。
さらに、戦後の1949年にはまたもや放火によって3棟を焼失しています。
火災によって木造建築が焼失することは珍しくはありませんが、三度にわたって放火や空襲などの人為的要因によって焼失した城というのは他に例がありません。
そのため、当然ながらこの放火事件も文化財保護法の成立に影響することになりました。
その後、1968年になってようやく1933年に焼失した部分が復元され、しだいに観光地として愛されるようになっていきました。
こうして復元された後は放火や自然火による焼失を経験することなく、現在に至るまで姿を大きく変えず松山に鎮座しています。
3.松前城の火事による焼失
画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%9F%8E
蠣崎家の本拠地として国宝に指定されていた松前城も焼失を経験しています。
1949年、城跡に存在した当直室から出火した火は瞬く間に城郭本体に燃え移り、天守と本丸御門の一部を焼失しました。
この火災原因は、当直用に職員が活用していた「簡易こたつ」と指摘されています。
「簡易こたつ」とは、寒さ対策として電灯に毛布をかぶせ、それをこたつとして使用していたものです。
昨今はLEDが普及しているのでご存知ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、本来電気とはエネルギーの塊であり熱を伴うものです。
そのため、電灯から発せられた熱が毛布に燃え移って火災を巻き起こしてしまったと考えられています。
こうして焼失した松前城は1961年に復元が完了し、現代では日本100名城にも指定されています。
2.日本における文化財防災対策
上記の内容で示してきたように、戦後間もない1949年という年は国宝級の文化財が3つも焼失するという散々な一年になってしまいました。
そのため、これらの事故を契機に日本における文化財保護の意識や具体的な対策が進んでいき、1955年の文化財保護行政確立以降「重要文化財」に指定された建造物が焼失した例はありません。
また、法隆寺金堂壁画が焼失した1949年1月26日は「文化財防火デー」と定められ、毎年この日には消防庁や地方自治体が連携して火災対策に乗り出しています。
さらに、文化財への火災報知機やスプリンクラーの設置も進められ、有事の際への備えも着々と整えられていきました。
「文化財への災害対策」については、対策用の備品や掲示物が配備されることで「建造物の外観を損なう」という意見や、「建造時の姿を尊重すべき」という意見もありますが、上記の文化財焼失を踏まえるとやむを得ない措置ではないかと感じます。
ただ、もちろん文化財との調和に配慮した外観の備品が備えられればそれが一番だと思いますので、災害対策と外観的調和のバランスについてはより重要視されるべきではないかと考えています。
3.おわりに
ここまで、戦後日本における重要文化財焼失の歴史を振り返ってきました。
かつては日本も文化財保護への意識が低かった時代があり、数々の文化財焼失を経て今のように文化財が尊重される時代になったということは、もっと多くの歴史好きが認識すべきではないかと思われます。
また、冒頭でも触れたノートルダムの火災も「不幸な事故」で終わらせるのではなく、事故原因の徹底検証と再発防止策の存在が必要不可欠です。
「日本を見習って」という表現は差別的視点が含まれるので望ましくないと感じていますが、世界的に文化財保護への意識を高める契機に放ったのではないかと感じています。
形あるものが失われることも含めて歴史である、という事実も否めませんが、文化財の存在が人々の精神的幸福に繋がっている以上はそれを極力守り通せるように努める必要があるでしょう。
【出典】
- 毎日新聞「パリのノートルダム寺院で大規模火災」
- 東京消防庁「文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災」
- 朝日新聞「松山城炎上!! 燃えた?残った?大天守」
- 大岡實建築研究所「松前城 再建・復元」
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