全ての「察せない人」に送る、空気が読めないまま社会で生きていくための対処法

感覚 違いライフハック

世の中の人間を大別すると、「察せる人」「察せない人」の二種類に分けることができます。

そして、後者に分類される人たちは、自分の「察せない」ことによって何かしらの不利益を被ったか、あるいは知らず知らずのうちに他者へ多大な迷惑をかけてきたことでしょう。

私も「察せない」一人なので、その光景が手に取るようにみえてきます。

しかし、同時に「察せない人」が悪意をもって意図的に空気を読んでいないわけではなく、ともすればそれを改善したいと願っている、ということもわかっているつもりです。

そこで、本記事では私という「察せない人間」が社会生活を送るうえで注意している「察せない人が察せないまま生きていくための生きかた」を淡々と記していきたいと思います。

0.「察する力」は改善できるか…?

さて、まず本題へ入る前に、なぜ本記事が「察せるようになるための方法」ではなく、「察せないまま上手に生きていく方法」を書くに至ったか、その点を補足しておきましょう。

まず、Googleで「空気が読めない」と検索すると、「空気が読めない人の特徴と対策」というようなページがずらりと出てきます。これはつまり、「空気が読めないことをなんとかしたい」と考えている方が多いことを示す有力な証拠であり、そうした記事が増えるのも納得です。

実際、私自身もご多分に漏れず「察せないこと」をなんとかしてみたいと考えていた時期が長く(今も完全になくなってはいません)、いろいろと対策を試してみたことがあります。

ところが、私の場合は「どうやら根本的な改善は難しそうだ」ということを悟るのみの成果にとどまってしまいました。

そして、本記事をお読みの方の中にも、きっと同じような経験をしたことのある方はいらっしゃるかと思います。

だからこそ、本記事では「察する力は向上しないもの」と仮定して、根本を変えられなくてもなんとか社会を渡り歩く方法を執筆するに至ったのです。

そもそも、私は「人の察する力」というものは、個々人が有する「察するセンサー」の精度で決まっていると考えています。

何かしらの学術的根拠はありませんが、あくまで五感によって感じられる体外の印象が同一であると仮定した場合、そうとしか説明ができないからです。

そして、そのセンサー性能は幼少期時点で確定してしまい、年齢を重ねて劣化することはあっても向上することはない、と考えます。

人体に例えるならば、視力と同じようなものでしょうか。

だからこそ、私としては「察する力を伸ばす方法」というものが、「トレーニングで視力を改善する方法」の列挙と同じようにしか見えないのかもしれません。

視力を改善することは、原則としてレーシック手術などの大規模な医療行為があって初めて成立するものです。

察する力も、きっとレーシック手術レベルの大規模な改善策を導入することで伸びるのでしょう。

しかし、言うまでもなくそれは簡単なことではない。

だからこそ人は眼鏡やコンタクトで視力を補い、なんとか誤魔化しながら生きてきたのです。

以下で説明する対策についても、それと同じようなものになるでしょう。

1.空気が読めないまま社会で生きていくための対処法

長々と「察せない語り」を続けてきましたが、いよいよ本題です。

以下では、私が生きる中で気を付けている「空気が読めないまま」社会で生きていくための対処法をご紹介します。

1.自分が「察せない」ということを知る

まずは、ソクラテスの「無知の知」よろしく、「自分が察せないということを知る」というのが非常に大切な対策になります。

一見すると全くもって当たり前にしか見えないこのこと。

しかし、ここで一つ皆さんに考えていただきたいことがあります。

皆さんの周りに、誰もが認める「察せない人」は一人くらいいると思いますが、その人は本当に自分が「察せない人」であることを知っていますか?

「自覚してそうには思えない…」と感じた方、少なくないのではないでしょうか。

私の場合も、周囲にそのことを絶対に自覚していないと断言できる人はそれなりにいますし。

そして、この事実はある恐ろしい気づきを我々に与えてくれるのです。

そう、この「察せない人であることを気づけない人」が、他でもない自分自身かもしれないということ。

考えただけでちょっと寒気がしませんか?

以上の点から、どれだけ「気づく」ということが大切かを認知していただけたのではないかと思います。

ただ、自分が「察せない人」であるかを「察する」ことは非常に難しい。

なぜなら、ここでいう「自分」は察せない人だから。

対策は「ちょっと辛辣なくらいの知人・家族」の意見を聞くこと

自分が「もしかして察せない人かもしれない…」と少しでも感じたとき、それを検討するにはやはり客観的意見が肝要です。

とはいえ、自分が「察せない」かどうかを尋ねても、人によっては気を使って正直な感想を話してはくれないでしょう。

その場合は、普段ちょっと辛辣で思ったことをすぐ口にするタイプの知人や家族に話を聞いてみるのが一番。

私は基本的に「ソロライフハッカー」を自称するレベルに一人でいることを好みますが、どうにもならないことというのは実際のところあるのです。

ぶっちゃけ「察せない人」の生き方として「なるべく人に会わない」というのは有効な策なのですが、学生時代はともかく社会に出てからそれを実行に移すのは至難の業。

ここは、客観的な意見に頼ってしまいましょう。

2.自分が「常に何も察せていない」という前提で行動する

これも上記の自覚と似てはいるのですが、「常に何も察せていないのではないか」と考えながら行動することは意外と重要です。

そもそも、「察せない人」がとくに深く思考することなく行動した結果「察せていない」という現状が生まれてしまっているわけですから、ここは多少強引にでも意識を変えるしかありません。

そのためには、極端ですが「自分は何も察せていない」というくらいの気持ちで行動するくらいのほうがよいのです。

強い警戒心を抱くことで多少は空気の読めない行動を抑制することができるでしょうし、失敗してしまった場合の自己反省も容易になるはず。

3.約束を守る・報連相を忠実に実行するなど、当たり前を徹底する

一見「察する」ということとは何の関係もなさそうですが、「約束を守る」や「報連相を忠実に実行する」などの、「当たり前の徹底」は、察せない人にとってかなり重要な生き方になります。

そもそも、世の中の半数以上は「察せる人」になるわけで、自分自身が察せない時点で社会的なハンディを背負っていると考えなければなりません。

しかし、先で触れたように「察せる人」になるのは難しい…。

では、どうやって「察せる人」に対して優位な立場を築くかというと、上述するような「当たり前で高難度でもないが、誰にでもはできないこと」を忠実に実行していくのが一番の近道でしょう。

自分が察せていない分、誠実な姿勢を見せることによって評価を高められるだけでなく、何か察せないことに起因する無礼を働いた場合でもそこを許される確率が上がります。

実際、私はわりと他者に対して「誠実」な部類であると自負していますが、そのおかげかまだ「察せない」ことによって日常生活や仕事に大きな支障は出ていません。

まあ、そもそも「察せない」ので、察せないことによって出ている実害ですらも「察せていない」可能性は否定できませんが。