「自分」という一人称代名詞は正しい?「私」や「わたくし」との違いを解説

エッセイ

日々、何気なく話している言葉は、そもそもなぜ話されるようになったか、ということについて考えることはありませんか?

私は時々そういうことを考えます。そういうわけで、今日は少し国語的な話として「自分は○○です」というような、一人称としての「自分」表現について考察していきます。

ただ、言語論のアカデミックな勉強をしているわけではないので、基本的には推察が中心の記事になっていきます。あくまで個人の意見ということで。

1.一人称代名詞としての「自分」

さて、みなさんは「わたし」を表現するときに、どのような言葉をを用いますか?

おそらく、いくつかのパターンが考えられると思います。日常の文脈では、わたし・あたし・(下の名前)・僕・俺などでしょうか。

少しフォーマルな文脈では、わたくし・わたしなどがそれにあたるでしょう。

少し変わったところでは、わし・吾輩・拙者・我なども、個性を表出したい際には用いられることもあるでしょう。

ただし、前にも触れた「フォーマルな場面」で使える一人称代名詞は、非常に限られたものになります。

少なくとも、そうした社会的共通意識はあると考えるべきです。

そして、そういった場面で使う一人称代名詞は、当然ある程度そういった意味の妥当性をもっているかどうかを、発言者も吟味することになると思います。

そうした背景がありながら、「自分」という一人称代名詞は、フォーマルな場面でも比較的よく用いられます。

皆さんの中にも、自分という一人称代名詞を使う機会はあるでしょう。ただ、個人的な感覚レベルの問題で、違和感を覚える用法によく出会う気がします。

例えば、「自分は~です。」というような発言を聞くと、背中を指でなぞられるような不思議な感覚に陥ります。

これはなぜなのでしょうか。その理由は、恐らく「教育の課程において、そうした用法を推奨された記憶がない」からでしょう。

実際に、文化庁が発表している「国語施策・日本語教育」という指針において、次のような方針が明言されています。

(1)自分をさすことば

 

1)「わたし」を標準の形とする。
2)「わたくし」は,あらたまった場合の用語とする。
付記
女性の発音では「あたくし」「あたし」という形も認められるが,原則としては,男女を通じて「わたし」「わたくし」を標準の形とする。
3)「ぼく」は男子学生の用語であるが,杜会人とたれば,あらためて「わたし」を使うように,教育上,注意をすること。
4)「じぶん」を「わたし」の意味に使うことは避けたい。

出典:「国語施策・日本語教育」

これをみると、私の感覚はあながち間違いではないということになります。

しかし、本論で私が伝えたいのは

『「わたし」、を表現するのに「自分」を用いるのは誤用!日本語の乱れ!』

というようなものではありません。そもそも、言葉が変化するものであるということは明らかですし、さらにこの場合は「誤用」が既にある程度一般的に浸透しているからです。

こういう場合、大抵はルールの方が変わります。そのため、そんなことに苦言を呈しても全く意味がないのです。

では、この論で何を問いたいのか。それは、「教育で推奨されていない言葉が、なぜフォーマルな領域で常用されるようになったのか」というものです。

通常、流行語であればそういった傾向に陥るのは不思議でも何でもないのですが、フォーマルな言葉の場合はわりあい古くからの慣例・しきたりが重視される傾向にあるような気がしたからです。

もちろん探せば他にいくらでも例はあるのでしょうが、なんせ気になってしまったので、今回は「自分」という一人称代名詞を主題に、その定着に至った理由を考察します。

2.「自分」という言葉で表現され得る意思

まず、二つの例文をもとに、そのイメージの違いを考えてみましょう。

「いえ、その一件は私に全責任があります。」

「いえ、その一件は自分に全責任があります。」

まず、この例文が発される背景を考えてみましょう。恐らく、何か重大な失敗をしてしまった直後に、目上の人間に対して責任の所在を明らかにしているような絵が浮かんでくるのではないでしょうか。
さらに、「いえ」という逆説表現が文頭にありますので、目上の人は同情の言葉をかけていたと想定できます。
さて、ここまでは大抵の人が同じ結論に至るのではないでしょうか。しかし、この両者には決定的に異なる部分があります。
それは「私」「自分」という部分です。この違いが、微妙なニュアンスの差を生み出しているような気がしませんか?少なくとも、完全に同じではないと思います。
個人的には、前者の場合は政治家や医師など、社会的にいわゆるインテリと呼ばれる階層の人間から発された言葉に感じられます。
一方で、後者の場合は軍人やスポーツマンなど、優れた肉体や闘争心をもっているタイプの人間から発された言葉に感じられます。
これは別にこう感じなければならないというものでもないでしょうが、少なくとも「私」と「自分」は完全に別のニュアンスを表現するために使い分けられているという事実には同意が得られやすいかもしれません。
ここには、「私」と「自分」が言葉としてもっている印象の違いが作用しているようにも感じられます。では、次にその違いを分析していきましょう。

1.「私」の場合

私(わたし)という表現は、現代の日本語では、一般的に使用される表現の中でも、かなりフォーマルかつ活用範囲の広い部類に入ると思います。

社会のどういった文脈においても使える一方で、力強さや荒々しさを表現することが必要な場面で用いられることは少ないようにも感じられます。その場合、大抵は「俺」や「僕」が使われるでしょう。

そういった文脈で使用されないことが影響して、個人的には万能ではあるがやや上品な表現という印象を受けます。

そのせいか、フォーマルな場面で力強さや荒々しさを表現したい場合には、「私」使用されないのではないでしょうか。

2.「自分」の場合

自分という表現は、書き言葉としては室町時代より使われていました。江戸時代に入ると、武士の書き言葉としての地位を確立します。

そして、明治以降になって大日本帝国軍が組織されると、そこでは話し言葉として使用が奨励され、かつ目下のものから目上の者へ用いられるという用法も確立しました。

しかし、戦後になるとそうした用法は公式に薦められることはなくなり、現代では自衛隊でも「私」という表現が用いられます。

ここからわかることとしては、特に近世以降「自分」という一人称代名詞が「武威」と密接な関係にあったという事実でしょう。

さらに、世間一般の「礼儀」には、武家由来のものも多いです。つまり、そういった歴史が影響して、上記のように現代でもフォーマルな場面で力強さや荒々しさを表現したい場合好んで用いられるようになったのではないでしょうか。

3.おわりに

個人的に、まさかこれほどスッキリした論が展開できるとは思っていませんでした。

なんとなく気になったことを調べていただけなのですが、それなりの完成度になったのではないかと思います。

【参考資料】
木川行央「一人称代名詞としての「自分」」、神田外語大学学術情報リポジトリ、2011年。
文化庁「国語政策・日本語教育(1)これからの敬語」、文化庁、1952年。

コメント

  1. 最後のバニー相撲 より:

    自分が発信したいことと
    求められるもののバランスが大事かと

    例えばですが、映画が好きだからといって知名度の低い名作映画の感想ただ書き連ねても誰も興味を持たないと思います。

    人に見てもらいたいのであれば、もっとエンターテイメント性が必要なのでは?

    たくさん人が集まっているブログを見て勉強した方がいいと思います。
    自分が目を引いたものや読んでおもしろいと思った記事をノートにまとめる、そういった努力をしなければ何事もうまくいきません。

    • とーじん より:

      おっしゃる通りだと思います。
      まだ駆け出しなので、いろいろなブログをみながら研究を重ねていきます。
      アドバイスありがとうございました!