「自分がされて嫌なことは人にするな」という慣用句に感じる、空恐ろしさと傲慢さ

恐怖 イメージエッセイ

皆さんも、人生どこかしらのタイミングで「自分がされて嫌なことは人にするな」という指導をされたことがあるのではないかと思います。

この思想は、日本社会において、現代にいたるまで普遍の「真理」として重宝されてきました。

が、タイトルからも察することができるように、私はこのことわざが大嫌いです。

では、一見すると素晴らしい教えにも思える「自分がされて嫌なことは人にするな」ということわざが、なぜ単独で記事を立項するほどに恐ろしく思えるのか。

慣用句の成り立ちから、言葉に見え隠れする「空恐ろしさ」と「傲慢さ」に迫ります。

1.孔子の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という教えが根底にある

まず、「自分がされて嫌なことは人にするな」という教えは誰によってもたらされたのか、という点を整理しておきましょう。

とはいえ、この思想がどこから生じたかを証明するのは簡単。

なぜなら、日本社会に強烈な影響を与えてきた孔子の『論語』に、上記の教えがそっくりそのまま掲載されているからです。

孔子孔子(出典:Wikipedia)

漢文の授業で必ず習うであろうフレーズ「己の欲せざる所は人に施す勿れ」を現代語に訳すと、見事に一致していることがわかるでしょう。

孔子の生み出した教え、つまり「儒教」がどれほど日本的な思想に影響をもたらしたかは、もはや立証するまでもないと思います。

そして、現代でもその影響力が衰えていないことの証明こそが、「普遍的な真理」として地位を確立している「自分がされて嫌なことは人にするな」思想の存在なのです。

2.なぜ、この思想は空恐ろしくヒトの業を感じさせるのか

さて、ここまで「私がこの思想を忌み嫌っていること」と「思想の成り立ち」を解説してきました。

しかし、読んでいる皆さんからすれば「えっ、自分のしてほしくないことを他人にしないなんて『当たり前』じゃないの?」と思われてしまうかもしれません。

もっとも、私に言わせれば、そういった考えに陥ってしまっていることこそが「恐ろしい」と心底思います。

では、なぜ「当たり前」のことで、私はこれほど空恐ろしさを感じているのか。

この点について、「自分が~」思想が内包している欠点を暴きながら言及していくこととしましょう。

1.他人の感情を自分の価値観「のみ」で判断する危険性が増す

まず、この思想は「自分と他人が同じことを嫌がるだろう」という一種の「共感性」をベースに成立しています。

孔子の教えをさらに細かく記すならば「自分がしてほしくないと感じることは、他人もしてほしくないと感じるはずだ。だから、そういうことをしてはいけない。」となるわけで、自分の感じ方から他人の感情を推測することの重要性を説いているのです。

この教えは言うまでもなく全く見当違いのものではなく、大半のことについては上記の理論で問題を未然に防ぐことができるでしょう。

例えば、いきなり他人を殴打することは万人にとって好ましくないことでしょうし、同じく他人を罵倒することもやはり好ましくない。これは、一定の「共感」を得られそうです。

ところが、この教えを無批判に受け入れてしまうと、大きな問題に直面してしまいます。

それは、「人によっては好ましいかもしれないし、人によっては好ましくないかもしれない事象を、『自分の感覚』に依存した形で判断することになる」ということ。

一例として、災害などの後に必ず問題となる「エンタメに対する不謹慎批判」を考えてみます。

皆さんも、SNS上などで「災害で大変な時期なのに、それを連想させるような作品や言動を行うことは不謹慎だ!」という書き込みを見かけたことはあるでしょう。

確かに、震災を連想させるような光景を目撃することは、被災者の方にとって辛さまでもをフラッシュバックさせかねない、非常に心理的負担の大きな出来事になる可能性は否めません。

が、私個人として問題提起したいのは、被災者の心理を「思いやって」、当事者でもないのに上記の批判を行う人々の存在です。

実際、SNSなどのツールでは「これは被災者の方にとって不謹慎だ」と、当事者以外の方が執拗に抗議をしている姿はよく目につきます。

ここで発言者は「自分が被災者だったら不謹慎だと感じるかもしれないし、被災者の方もそう思うに違いない」と「自分が~」理論を無意識のうちに適用しているのです。

ところが、実はこのプロセスにおいて「本当に被災者の方が不謹慎だと感じているのか」という視点が抜け落ちていることにお気づきでしょうか。

なぜなら、一見すると被災者の方を思いやった抗議に見えますが、抗議者が本当に被災者の思いを汲み取って活動しているとは限らないからです。

もちろん時と場合、それに「対象の不謹慎度合い」にもよるでしょうが、結局は「自分が~」理論を隠れ蓑に、「俺が不快な気持ちになった」という自己都合を押し付けて憂さ晴らしをしている層というのは確実に存在します。

以上はあくまで仮定の話ですが、これは人種・宗教・思想などの大きな枠組みから、日常のささいな事象まで当てはまる致命的な問題点。

分かりやすくいってしまえば「強烈かつはた迷惑なお節介野郎」になる可能性があるのですね。

ここで、「自分が~」理論を無批判に取り入れることの恐ろしさの一端を説明できたのではないでしょうか。

2.自分の価値観を普遍のものだと思い込んでしまう

上記の主張とも関連する問題点ですが、「自分が~」理論は本質的に相手の感情を受容する機会を奪うだけでなく、自分自身が有する価値観を普遍的なものだと思い込むリスクを有しています。

これはどういうことか。

「自分が~」理論は「相手と自分の価値観が同じである」ことを前提としている点に問題があるというのはすでに触れましたが、これが発展していくと「自分の価値観は普遍的なものなのだ」、つまり「自分は正しい人間なのだ」という思い込みへとつながっていく可能性が否めないのです。

上記の例では「自分と相手」という一対一の関係性にとどまっていたものが、「自分と他の人」というように、より大きな単位に発展していっても不思議ではありません。

これまた例えを出してみましょう。

今回は「社会への問題提起」をする際にお馴染みのナチスで例えると、「私はユダヤ人の存在が許せない」というドイツ人がいたとします。

彼が「自分が~」理論を振り回すと、「親兄弟も許せないハズだ」「近所に住んでいるAさんも許せないハズだ」と、しだいにその範囲が拡大していくでしょう。

なぜなら、「自分が~」理論は「相手を単数に限定していない」からです。

したがって、理論の適用範囲は際限なく広がっていき、やがてお互いの発想が連鎖して「社会の風潮」へと進化していくでしょう。

この段階まで到達すれば「社会が同じ方向を向いている。自分も同じことを考えているし、やはり正しい人間だ。」と考えるのは時間の問題です。

これまた、「自分が~」理論の恐ろしさが浮き彫りになったように思えます。

3.理論を逆転させてしまうと、より恐ろしい結末を招く

最後は、上記の理論を応用するときに生じる問題点を考えていきましょう。

「自分が~」理論に内包されている考え方自体は、なにも「嫌なこと」に限定しなくても適用できそうです。

代表的な例としては、「嫌なこと」をそっくりそのまま反転させて「自分がされたいと思うことは、人にしてもいい」というような形が分かりやすいでしょうか。

がしかし、この反転理論は、「嫌なこと」思想に基づいて行動を起こしたときよりもはるかに危険な結末を招きかねません。

なぜなら、「嫌なこと」思想の場合はあくまで「するな」ということを命じた抑制の命令であるのに対し、それを反転させると「してもよい」という促進の意味を有してしまうからです。

これも例にするとわかりやすいので、イジメやパワハラの加害者視点で考えてみましょう。

彼らの「非行」が明るみに出たとき、しばしば耳にする言い訳が「そんなつもりじゃなかった」「自分としては、イジリ・指導のつもりだった」というようなものです。

すでに答えを言っているようなものですが、こうした発言の裏には自己弁護だけでなく「自分がしてほしいことは、他人も同じだと思っていた」という考えが見え隠れしています。

しかし、残念ながらこうした言い訳が受け入れられることはほぼなく、加害者は単なる犯罪者と見なされてしまうのです。

もちろんこうした行為を擁護するわけではありませんが、「自分が~」理論を応用したことによって招き入れてしまった一種の「悲劇」という見方もできます。

皆さんは、本当に思い当たる点がないといえますか?

3.「自分が~」理論は、本当に「悪」なのか

ここまで、「自分が~」理論の恐ろしさを解説してきました。

先ほどから何度も繰り返しているように、私はこの教えが心底嫌いです。

人間の傲慢さや愚かさが、これ以上ないほどに表れているから。

ところが、これは言うまでもなく数千年にわたって人々に受け継がれてきた思想であり、そこにはやはり学ぶべき点もあります。

何かしらのアクションを起こすとき、「他人がどう思うかを考える」というプロセス自体は欠かせませんし、時には自分本位に引き付けて物事を判断する必要性のある場面にも出会うことでしょう。

したがって、「自分が~」理論そのものが「悪」なのではなく、尊い教えとしてそれを無批判に受け入れ、実行に移してしまうことこそが「悪」なのではないでしょうか。