「表現の自由展」から、公共の福祉とのバランスやネット独自の規制・検閲を考える

落書き 表現の自由 比喩エッセイ
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3.これからの表現規制は「公共の福祉」ではなく「巨大IT企業の福祉」?

文字列 インターネット

さて、ここまで表現規制展で知り得た内容を紹介してきました。

しかし、そこでの知見を文章としてまとめ、記事を作成していた私はあることに気づきます。

それは、

「あれ、この記事を書いているこの時にさえ、私の表現の自由はかなり厳しく制限されてない?」

ということです。

1.本当はもっと資料を用意したいけれど…

実際、この記事はある程度学術的な内容をもとに問題提起を行っているわけで、その過程においてもう少し「過激」な参考資料や文言を使用したいのです。

ところが、それはとある規約によって規制されており、現状の私にそれをはねのける力は存在しません。

では、それは誰による規制か。自主規制によって名前は出せませんが、当ブログが収益の柱として考えている「某巨大IT企業」そのもの。

私はこの企業に収益性を依存しているので、彼らの意に反する内容を書くことは極めて難しいと言わざるを得ません。

仮に「ビッグ・ブラザー」よろしく彼らの目に留まってしまえば、一瞬でインターネットの世界から当ブログは姿を消すでしょう。

2.多数を救うために少数を犠牲にしても良いのか?

このタイトルにある文言は、古来より人類を悩ませてきた大きな悩みといえるでしょう。

この原則はもちろん現代ネット社会においても例外ではなく、現在のインターネットには様々な「検閲」が存在していることをご存知でしょうか?

サイト運営者ならだいたいの理解はできていると思いますが、普通に生活している皆さんには馴染みがないかもしれませんね。

ただし、この問題の難しいところは、彼らはあくまで「公共の福祉」や「人類の道理」を盾に規約を改定しており、大部分は「正しい」と思われる検閲になっている点です。

実際、「ヘイトスピーチや人種差別を野放しにするとどうなるか」という問題は、各種SNSにおける炎上や昨今の事件に対する反応を見れば明らかで、そこに対策を講じたいというのはやむを得ないでしょう。

ただし、上記の「建前」があるゆえに「多数を救うために少数の『例外』がはじかれてしまうのは仕方ないよね」という理論がまかり通り、AIによる無作為の選別に晒され続けています。

その証拠に、規約に違反した利用者には「規約違反です」の一言でペナルティが課せられ、我々は反論の機会を閉ざされてしまうのです。

確かに規制の中には納得できるものも大半ですが、この問題についてはもっと積極的な議論を講じるべきだと考えています。

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3.「サービスを利用するかは我々の自由意志である」という建前

よりこの問題を複雑にしている点は「あくまで当社のサービスを使うか使わないかは君の自由だ」とこちら側に「自由意志」の選択権があるという点です。

それゆえに、我々は自由意志でサービスを選択し、彼らの規制に合意するという手続きが踏まれます。

ところが、この「自由意志」という権利は、存在するように見せかけて存在していないというのが正直なところ。

ネット上で巨大IT企業に逆らっては収益化や情報交換のすべがなく、実質的に選択の権利は存在していないといえるでしょう。

この図式は、「嫌なら出ていけ」というそもそもの議論を放棄した凶悪性をはらんでいると考えられます。

本来であれば、規制というのは「規制する側」と「規制される側」双方向の情報交換によって溝を埋めていくのが鉄則です。

ところが、こうした企業は「世界中を相手にしている」という理由で対話の機会を極端に狭めています。

すると我々はどうしても彼らの意志を「忖度」せざるを得ず、パワーバランスとして極めて不健全な状態が構築されてしまうのです。

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4.まとめ

ここまで、「表現の自由」展で感じたことや、そこから発展して現代ネット社会における課題を分析してきました。

正直、昨今の社会とインターネットが不可分な状態にある以上、「インターネットにおいては、国家のルールよりも私企業のルールが優先される」という現状は非常に危険なものであると考えられます。

これは、私に言わせれば「現代版帝国主義」そのものであり、価値観の画一化や利潤追求による秩序の崩壊を招くリスクに満ち溢れているでしょう。

この現状をようやく国家側も認識し国際的なインターネットのルール作りに腰を上げているようですが、企業の経済活動をどれほど制限できるかは不透明です。

もっとも、ルール作りといっても「税金」の面が主であり、「表現規制」の面には議論が及んでいないような気がしますが…。

ちなみに、こうした「思想や表現の統制」という内容に関心のある方は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルが書いた小説「1984年」を読んでみることをオススメします。

1950年代の物語ながら、まるで現代インターネット界にはびこる問題を言い表したような内容に、思わず唸らされることは間違いありません。

私も過去に同書の書評と解説を行っているので、こちらも合わせてお読みいただくと「現代」という時代における価値が理解できるかもしれませんね。

それでは、「怖いヒト」にこの記事が消されないことを祈って記事を締めさせていただきます(笑)

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