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	<title>エッセイ  |  エンタメ歴史ライターの運営するブログ「とーじん日記」</title>
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	<title>エッセイ  |  エンタメ歴史ライターの運営するブログ「とーじん日記」</title>
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		<title>「自分がされて嫌なことは人にするな」という慣用句に感じる、空恐ろしさと傲慢さ</title>
		<link>https://to-jin.net/confucianism-problem/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[とーじん]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 Nov 2019 14:58:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
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					<description><![CDATA[皆さんも、人生どこかしらのタイミングで「自分がされて嫌なことは人にするな」という指導をされたことがあるのではないかと思います。 この思想は、日本社会において、現代にいたるまで普遍の「真理」として重宝されてきました。 が、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>皆さんも、人生どこかしらのタイミングで<span class="marker-under-blue"><strong>「自分がされて嫌なことは人にするな」</strong></span>という指導をされたことがあるのではないかと思います。</p>
<p>この思想は、日本社会において、現代にいたるまで普遍の「真理」として重宝されてきました。</p>
<p>が、タイトルからも察することができるように、私はこのことわざが<strong>大嫌い</strong>です。</p>
<p>では、一見すると素晴らしい教えにも思える「自分がされて嫌なことは人にするな」ということわざが、なぜ単独で記事を立項するほどに恐ろしく思えるのか。</p>
<p><strong>慣用句の成り立ちから、言葉に見え隠れする「空恐ろしさ」と「傲慢さ」に迫ります。</strong></p>

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</div>

<h2><span id="toc1">1．孔子の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という教えが根底にある</span></h2>
<p>まず、「自分がされて嫌なことは人にするな」という教えは誰によってもたらされたのか、という点を整理しておきましょう。</p>
<p>とはいえ、この思想がどこから生じたかを証明するのは簡単。</p>
<p><strong>なぜなら、日本社会に強烈な影響を与えてきた孔子の『論語』に、上記の教えがそっくりそのまま掲載されているからです。</strong></p>
<p style="text-align: center;"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="size-full wp-image-1825 aligncenter" src="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/11/Confucius_02.png" alt="孔子" width="192" height="390" srcset="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/11/Confucius_02.png 192w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/11/Confucius_02-148x300.png 148w" sizes="(max-width: 192px) 100vw, 192px" /><span style="font-size: 12px; color: #999999;">孔子（出典：Wikipedia）</span></p>
<p>漢文の授業で必ず習うであろうフレーズ<span class="marker-under-blue"><strong>「己の欲せざる所は人に施す勿れ」</strong></span>を現代語に訳すと、見事に一致していることがわかるでしょう。</p>
<p>孔子の生み出した教え、つまり「儒教」がどれほど日本的な思想に影響をもたらしたかは、もはや立証するまでもないと思います。</p>
<p>そして、現代でもその影響力が衰えていないことの証明こそが、「普遍的な真理」として地位を確立している<strong>「自分がされて嫌なことは人にするな」</strong>思想の存在なのです。</p>
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</div>

<h2><span id="toc2">2．なぜ、この思想は空恐ろしくヒトの業を感じさせるのか</span></h2>
<p>さて、ここまで「私がこの思想を忌み嫌っていること」と「思想の成り立ち」を解説してきました。</p>
<p>しかし、読んでいる皆さんからすれば<strong>「えっ、自分のしてほしくないことを他人にしないなんて『当たり前』じゃないの？」</strong>と思われてしまうかもしれません。</p>
<p>もっとも、私に言わせれば、<strong>そういった考えに陥ってしまっていることこそが「恐ろしい」</strong>と心底思います。</p>
<p>では、なぜ「当たり前」のことで、私はこれほど空恐ろしさを感じているのか。</p>
<p>この点について、「自分が～」思想が内包している欠点を暴きながら言及していくこととしましょう。</p>
<h3>1．他人の感情を自分の価値観「のみ」で判断する危険性が増す</h3>
<p>まず、この思想は「自分と他人が同じことを嫌がるだろう」という一種の「共感性」をベースに成立しています。</p>
<p>孔子の教えをさらに細かく記すならば<strong>「自分がしてほしくないと感じることは、他人もしてほしくないと感じるはずだ。だから、そういうことをしてはいけない。」</strong>となるわけで、自分の感じ方から他人の感情を推測することの重要性を説いているのです。</p>
<p>この教えは言うまでもなく全く見当違いのものではなく、大半のことについては上記の理論で問題を未然に防ぐことができるでしょう。</p>
<p>例えば、いきなり他人を殴打することは万人にとって好ましくないことでしょうし、同じく他人を罵倒することもやはり好ましくない。これは、一定の「共感」を得られそうです。</p>
<p>ところが、この教えを無批判に受け入れてしまうと、大きな問題に直面してしまいます。</p>
<p>それは、<span class="marker-under-blue"><strong>「人によっては好ましいかもしれないし、人によっては好ましくないかもしれない事象を、『自分の感覚』に依存した形で判断することになる」</strong></span>ということ。</p>
<p>一例として、災害などの後に必ず問題となる<strong>「エンタメに対する不謹慎批判」</strong>を考えてみます。</p>
<p>皆さんも、SNS上などで「災害で大変な時期なのに、それを連想させるような作品や言動を行うことは不謹慎だ！」という書き込みを見かけたことはあるでしょう。</p>
<p>確かに、震災を連想させるような光景を目撃することは、被災者の方にとって辛さまでもをフラッシュバックさせかねない、非常に心理的負担の大きな出来事になる可能性は否めません。</p>
<p>が、私個人として問題提起したいのは、被災者の心理を「思いやって」、当事者でもないのに上記の批判を行う人々の存在です。</p>
<p>実際、SNSなどのツールでは「これは被災者の方にとって不謹慎だ」と、当事者以外の方が執拗に抗議をしている姿はよく目につきます。</p>
<p><strong>ここで発言者は「自分が被災者だったら不謹慎だと感じるかもしれないし、被災者の方もそう思うに違いない」と「自分が～」理論を無意識のうちに適用しているのです。</strong></p>
<p>ところが、実はこのプロセスにおいて<strong>「本当に被災者の方が不謹慎だと感じているのか」</strong>という視点が抜け落ちていることにお気づきでしょうか。</p>
<p>なぜなら、一見すると被災者の方を思いやった抗議に見えますが、抗議者が本当に被災者の思いを汲み取って活動しているとは限らないからです。</p>
<p>もちろん時と場合、それに「対象の不謹慎度合い」にもよるでしょうが、結局は「自分が～」理論を隠れ蓑に、「俺が不快な気持ちになった」という<span class="marker-under-blue"><strong>自己都合を押し付けて憂さ晴らしをしている層</strong></span>というのは確実に存在します。</p>
<p>以上はあくまで仮定の話ですが、これは人種・宗教・思想などの大きな枠組みから、日常のささいな事象まで当てはまる致命的な問題点。</p>
<p>分かりやすくいってしまえば<strong>「強烈かつはた迷惑なお節介野郎」</strong>になる可能性があるのですね。</p>
<p>ここで、「自分が～」理論を無批判に取り入れることの恐ろしさの一端を説明できたのではないでしょうか。</p>
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          </div>

</div>

<h3>2．自分の価値観を普遍のものだと思い込んでしまう</h3>
<p>上記の主張とも関連する問題点ですが、「自分が～」理論は本質的に相手の感情を受容する機会を奪うだけでなく、<strong>自分自身が有する価値観を普遍的なものだと思い込む</strong>リスクを有しています。</p>
<p>これはどういうことか。</p>
<p>「自分が～」理論は「相手と自分の価値観が同じである」ことを前提としている点に問題があるというのはすでに触れましたが、これが発展していくと「自分の価値観は普遍的なものなのだ」、つまり<strong>「自分は正しい人間なのだ」</strong>という思い込みへとつながっていく可能性が否めないのです。</p>
<p>上記の例では「自分と相手」という一対一の関係性にとどまっていたものが、「自分と他の人」というように、より大きな単位に発展していっても不思議ではありません。</p>
<p>これまた例えを出してみましょう。</p>
<p>今回は「社会への問題提起」をする際にお馴染みのナチスで例えると、「私はユダヤ人の存在が許せない」というドイツ人がいたとします。</p>
<p>彼が「自分が～」理論を振り回すと、「親兄弟も許せないハズだ」「近所に住んでいるAさんも許せないハズだ」と、しだいにその範囲が拡大していくでしょう。</p>
<p>なぜなら、「自分が～」理論は<strong>「相手を単数に限定していない」</strong>からです。</p>
<p>したがって、理論の適用範囲は際限なく広がっていき、やがてお互いの発想が連鎖して「社会の風潮」へと進化していくでしょう。</p>
<p>この段階まで到達すれば「社会が同じ方向を向いている。自分も同じことを考えているし、やはり正しい人間だ。」と考えるのは時間の問題です。</p>
<p>これまた、「自分が～」理論の恐ろしさが浮き彫りになったように思えます。</p>
<h3>3．理論を逆転させてしまうと、より恐ろしい結末を招く</h3>
<p>最後は、上記の理論を応用するときに生じる問題点を考えていきましょう。</p>
<p>「自分が～」理論に内包されている考え方自体は、なにも「嫌なこと」に限定しなくても適用できそうです。</p>
<p>代表的な例としては、「嫌なこと」をそっくりそのまま反転させて<strong>「自分がされたいと思うことは、人にしてもいい」</strong>というような形が分かりやすいでしょうか。</p>
<p>がしかし、この反転理論は、「嫌なこと」思想に基づいて行動を起こしたときよりもはるかに危険な結末を招きかねません。</p>
<p>なぜなら、「嫌なこと」思想の場合はあくまで「するな」ということを命じた抑制の命令であるのに対し、それを反転させると「してもよい」という促進の意味を有してしまうからです。</p>
<p>これも例にするとわかりやすいので、イジメやパワハラの加害者視点で考えてみましょう。</p>
<p>彼らの「非行」が明るみに出たとき、しばしば耳にする言い訳が<strong>「そんなつもりじゃなかった」「自分としては、イジリ・指導のつもりだった」</strong>というようなものです。</p>
<p>すでに答えを言っているようなものですが、こうした発言の裏には自己弁護だけでなく「自分がしてほしいことは、他人も同じだと思っていた」という考えが見え隠れしています。</p>
<p>しかし、残念ながらこうした言い訳が受け入れられることはほぼなく、加害者は単なる犯罪者と見なされてしまうのです。</p>
<p>もちろんこうした行為を擁護するわけではありませんが、「自分が～」理論を応用したことによって招き入れてしまった一種の「悲劇」という見方もできます。</p>
<p>皆さんは、本当に思い当たる点がないといえますか？</p>
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          </div>

</div>

<h2><span id="toc3">3．「自分が～」理論は、本当に「悪」なのか</span></h2>
<p>ここまで、「自分が～」理論の恐ろしさを解説してきました。</p>
<p>先ほどから何度も繰り返しているように、私はこの教えが心底嫌いです。</p>
<p><strong>人間の傲慢さや愚かさが、これ以上ないほどに表れているから。</strong></p>
<p>ところが、これは言うまでもなく数千年にわたって人々に受け継がれてきた思想であり、そこにはやはり学ぶべき点もあります。</p>
<p>何かしらのアクションを起こすとき、「他人がどう思うかを考える」というプロセス自体は欠かせませんし、時には自分本位に引き付けて物事を判断する必要性のある場面にも出会うことでしょう。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>したがって、「自分が～」理論そのものが「悪」なのではなく、尊い教えとしてそれを無批判に受け入れ、実行に移してしまうことこそが「悪」なのではないでしょうか。</strong></span></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>なぜ「w」は「草」へと「退化」したのか？ネットスラングの盛衰を検証</title>
		<link>https://to-jin.net/w-kusa/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[とーじん]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 09 Sep 2019 15:11:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
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					<description><![CDATA[インターネットスラングで、笑いを表現する方法はいくつも存在します。 一例を挙げただけでも「（笑）・藁・ワロタ・ｗ・草」など…。 しかし、現代のツイッターや5ちゃんねるにおいて、恐らく一番主流になっている表現は「草」ではな [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>インターネットスラングで、笑いを表現する方法はいくつも存在します。</p>
<p>一例を挙げただけでも<strong>「（笑）・藁・ワロタ・ｗ・草」</strong>など…。</p>
<p>しかし、現代のツイッターや5ちゃんねるにおいて、恐らく一番主流になっている表現は<strong>「草」</strong>ではないでしょうか。</p>
<p>このスラングはもはやネットの枠を飛び越えてリアルの領域でも使用されるようになっています。</p>
<p>しかし、一昔前は笑いを表現するネットスラングが「w」であった時代もあり、後述しますが<span class="marker-under-blue"><strong>いったいなぜ簡略化された末にたどり着いた「w」から「草」へと表現が「退化」してしまったのか。</strong></span></p>
<p>この記事では、そのあたりを解説していきます。</p>

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          </div>

</div>

<h2><span id="toc1">1．ネットにおける「笑いを意味するスラング」の歴史</span></h2>
<p style="text-align: center;"><img decoding="async" class="alignnone wp-image-1547" src="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/2ch_AA_Characters.gif" alt="２ちゃんねる　AA" width="796" height="450" /><br />
<span style="font-size: 12px; color: #999999;">2ちゃんねるのアスキーアート（出典：Wikipedia）</span></p>
<p>そもそも、インターネット通信が一部のマニアたちの間で導入された1980年代から「笑い」を表現するためのスラングが用いられていました。</p>
<p>当時は<strong>「（笑）」</strong>が主流だったようですが、これは「当時のチャットツールによる漢字入力の制限」や「入力のしやすさ」などからしだいに<strong>「w」</strong>へとその地位を譲っていくことになります。</p>
<p>黎明期には「w」の一文字で用いられていたようですが、この文化が当時アングラな場としてにわかに普及していた２ちゃんねるに持ち込まれると使用法に変化が生じてきました。</p>
<p>これまでは<strong>「〇〇だw」</strong>とされていた用法が、<strong>「〇〇だｗｗｗｗｗｗｗｗｗｗｗ」</strong>と、文末に多数を置くことが通例化していきます。</p>
<p>そして2ちゃんねるの人気が高まっていくとともにネット全体にこの使用法が広まっていき、やがてネットスラングとして笑いを表現する第一の手法に成長していったのです。</p>
<p>したがって、現代でも当時の２ちゃんねるの文化を残す<strong>ニュー速VIP</strong>や<strong>ニコニコ動画</strong>といった一部の界隈では現役のスラングとして活躍しています。</p>
<p>ところが、先にも述べたように現代では<strong>「草」</strong>がネット全体で普及しており、その勢いは</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>ラインなどのリアルに近いSNSやリアルにおける会話</strong></span></p>
<p>にさえ登場するほどなのです。これについては、先の「ｗｗｗ」では見られなかった大きな特徴です。</p>
<p>そして、この<strong>「草」</strong>がどこで普及したかといえば、私の記憶では<strong>2010年代前半のなんでも実況J</strong>と指摘できそうです。</p>
<p>この通称なんJという掲示板は先に触れたニュー速VIPなどと同じく２ちゃんねるの板であり、2010年代に入ってVIPが衰退してくると２ちゃんねるの巨大板に成長していきました。</p>
<p>その勢いは時を同じくして普及してきたTwitterにも大きな影響を与え、<span class="marker-under-blue"><strong>現代のネットスラングはこのなんJ発祥のものが少なくありません。</strong></span></p>
<p>以上のような歴史の中で、笑いを表現するネットスラングは変化してきたのです。</p>
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          </div>

</div>

<h2><span id="toc2">2．なぜ「ｗｗｗ」は「草」へと「退化」したのか</span></h2>
<p><img decoding="async" class="wp-image-1548 aligncenter" src="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/girl-4256554_1280-1024x683.jpg" alt="" width="748" height="499" srcset="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/girl-4256554_1280-1024x683.jpg 1024w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/girl-4256554_1280-300x200.jpg 300w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/girl-4256554_1280-768x512.jpg 768w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/09/girl-4256554_1280.jpg 1280w" sizes="(max-width: 748px) 100vw, 748px" /></p>
<p>ここまで振り返ってきた歴史を整理すると<strong>「表現が変わったのは単に流行が変わっただけでは？」</strong>とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>確かにそれもまた事実なのですが、個人的にはこの表現の変化から<strong><span class="marker-under-blue">「単なる流行り廃りではないネット社会の変質」</span></strong>を見ることができると思うのです。</p>
<p>特に、「表現を簡略化する」という目的で最も入力が容易な「ｗ」が普及したにもかかわらず、文字数も変換工程も増えた「草」にその地位を取って代わられたのはなぜか。</p>
<p>このあたりを考えていくと、面白い仮説がいくつも浮かんできました。</p>
<h3>1．ネットが「オタクのもの」から「みんなのもの」になった</h3>
<p>皆さんは「ｗｗｗ」という表現を改めて見てみて、どんなことを感じますか？</p>
<p>私に言わせれば「懐かしさ」と「オタクっぽさ」を匂わせる表現だと思っています。</p>
<p>こう感じる理由も言語化することができて、かつて私を含めてネットの住民はみな<strong>「オタク」</strong>であり<strong>「アングラ」</strong>なことを自覚していました。</p>
<p>これは現代と違ってインターネットに接続できる環境も人も限られていたためで、<strong>ある程度機械に精通している≒オタク気質がある</strong>、という図式さえ成り立ち得ました。</p>
<p>そのため、「ｗｗｗ」が用いられていた00年代はインターネット社会が<span class="marker-under-blue"><strong>「オタクのための、オタクによる領域」</strong></span>と化しており、リアルとの結びつきは今よりずっと希薄だったように思えます。</p>
<p>こういう事情があったために、ネットにおいて流行していた「ｗｗｗ」は、現実の世界にひとたび出てしまうと<strong>「オタク的でリアルから浮いた存在」</strong>と見なされてしまっていたのです。</p>
<p>しかし、10年代に突入するとスマホの普及によってSNSが爆発的な流行を見せていき、日本人にとって<strong>「国民総インターネット住民」</strong>という時代が訪れました。</p>
<p>こうして以前であれば絶対にネットを利用していなかった層が流入したことにより、ネット文化も連動して変化していったのです。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>そこで、我々はかつて「オタク的なネットの象徴」であった「ｗｗｗ」を切り捨て、ちょうど当時なんJで流行していた「草」を代用表現として用いることで、「アングラな世界としてのインターネット文化」を無意識のうちで拒否する姿勢を見せたのではないでしょうか。</strong></span></p>
<p>我々が「ｗｗｗ」に懐かしさを、あるいはオタクっぽさを感じてしまうのは、こうしたネット社会の変化に影響されているのかもしれません。</p>
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          </div>

</div>

<h3>2．スマホの普及によって「ｗ」より「草」が入力しやすくなった</h3>
<p>先にも述べてきたように、「ｗ」が台頭した理由は<strong>「入力難易度を下げ、入力時間を削減する」</strong>というものだと考えられています。</p>
<p>これはキーボード入力を想定いただけると大変分かりやすいのですが、確かに「ｗｗｗ」と入力するのは非常に容易です。</p>
<p>実際、「ｗｗｗ」と「草」の入力に必要な工程を書き出してみると</p>
<div class="blank-box bb-blue"><strong>・「ｗｗｗ」…ｗキーを三連打→エンター</strong></div>
<div class="blank-box bb-blue"><strong>・「草」…k,u,s,aキー→変換キー→エンター</strong></div>
<p>と、小さな差にも思えますが明らかに「ｗｗｗ」のほうがかかる手間を削減できています。</p>
<p>これは単なるチャットであれば気にしなくてもよい程度の差ですが、例えば番組実況やネトゲのチャットで文字入力をする場合、最速であることは非常に大切になってくるのです。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>ところが、上記で前提としたキーボード入力ではなく、昨今のトレンドでもあるスマホ入力を想定して入力難易度を検討してみると、その差はむしろ逆転しかねないということに気づかされます。</strong></span></p>
<p>実際、私の手元にあるスマホの「フリック入力」で手順を比較してみると</p>
<div class="blank-box bb-blue"><strong>・「ｗｗｗ」…ひらがなから英数字入力に切り替え→wキー→文字送り→wキー→文字送り→wキー→エンター</strong></div>
<div class="blank-box bb-blue"><strong>・「草」…フリックでく→予測変換で草</strong></div>
<div>と、キーボード入力に比べて入力難易度が逆転してしまうのです。</div>
<div></div>
<div>もちろんキーボードの設定などをいじればこのあたりはいくらでもカスタマイズできますが、大半の方はスマホをデフォルトの状態で使用するでしょう。</div>
<div></div>
<div><strong>すると、肝心の入力難易度でも「草」のほうが優勢ということになります。</strong></div>
<h3>3．リアルで口にすることを考えると、草のほうが使い勝手がいい</h3>
<p>「ｗｗｗ」という表現には、実はこれと言って正しい読み方が存在しません。</p>
<p>ここまで見てきたように、そもそも「ｗｗｗ」はインターネットチャットでのみ使用することを前提として生まれてきたものなので、読み方は必要なかったのです。</p>
<p>とはいえ、しだいに「ｗｗｗ」が普及していくと一応の便宜的な読み方が登場してくるようになります。</p>
<p>それは<strong>「わら」</strong>で、例えばゆっくり実況やsoftalkなどの音声読み上げツールを用いる際にしばしばこの発音を聞くことができるでしょう。</p>
<p>そのため、「ｗｗｗ」は「わらわらわら」と読むことになります。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>しかし、これを実社会の会話の中に織り交ぜていくと、その使い勝手が非常に悪いことに気づかされます。</strong></span></p>
<p>例えば、「ちょｗｗｗおまｗｗｗ」のようなお馴染みの定型表現は、発音してみると笑いを伝えたいにもかかわらずとにかくまどろっこしく聞こえてしまうでしょう。</p>
<p>そのため、現実で発音する場合には<strong>「〇〇でわろた」</strong>や<strong>「〇〇で笑う」</strong>というように、他の表現を用いることも多かったです。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>一方、「草」という表現は、会話の中における汎用性が非常に高いです。</strong></span></p>
<p>ネット上で用いられる使い方として代表的な<strong>「（面白いことに対して）草」「草生える」「○○で草」</strong>という表現は、<strong>どれも会話の中に違和感なく取り入れることができます。</strong></p>
<p>したがって、リアルとネットが接近した結果<strong>「リアルとネットで両用できる表現の需要が高まった」</strong>という可能性は指摘できるでしょう。</p>
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          </div>

</div>

<h2><span id="toc3">3．まとめ</span></h2>
<p>ここまで、「ｗ」と「草」の入れ替わりに関する様々な考察を実施してみました。</p>
<p>正直こんなバカげたことをマトモに考察している方が全然いなかったので参考資料を示せないのは残念ですが、もっと理論を詰めていけば面白い研究分野になる可能性を秘めているように感じます。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>ネットとリアルが不可分のものになったという言説は至るところで確認できますが、その事実はネット文化にも非常に大きな影響を与えているのです。</strong></span></p>
<p>仮に私の仮説が正しいとするならば、ネットスラングが「消滅」してしまう日もそう遠くはないのかもしれませんね。</p>
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		<title>ネット住民が頼りがちなウィキペディアの使い方を徹底解説！問題点も少なくない？</title>
		<link>https://to-jin.net/wikipedia/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[とーじん]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 24 Jun 2019 14:43:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://to-jin.net/?p=1191</guid>

					<description><![CDATA[インターネットで情報を得ている方ならば一度は目にしたことがあるであろうサイト、それが「Wikipedia」（通称：ウィキ、Wiki）です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1% [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>インターネットで情報を得ている方ならば一度は目にしたことがあるであろうサイト、それが<strong>「Wikipedia」（通称：ウィキ、Wiki）</strong>です。</p>
<div class="blogcard-type bct-official">
<a rel="noopener" target="_blank" href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8" title="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8" class="blogcard-wrap external-blogcard-wrap a-wrap cf"><div class="blogcard external-blogcard eb-left cf"><div class="blogcard-label external-blogcard-label"><span class="fa"></span></div><figure class="blogcard-thumbnail external-blogcard-thumbnail"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://s.wordpress.com/mshots/v1/https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%25A1%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259A%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25B8?w=160&#038;h=90" alt="" class="blogcard-thumb-image external-blogcard-thumb-image" width="160" height="90" /></figure><div class="blogcard-content external-blogcard-content"><div class="blogcard-title external-blogcard-title">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8</div><div class="blogcard-snippet external-blogcard-snippet"></div></div><div class="blogcard-footer external-blogcard-footer cf"><div class="blogcard-site external-blogcard-site"><div class="blogcard-favicon external-blogcard-favicon"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.google.com/s2/favicons?domain=ja.wikipedia.org" alt="" class="blogcard-favicon-image external-blogcard-favicon-image" width="16" height="16" /></div><div class="blogcard-domain external-blogcard-domain">ja.wikipedia.org</div></div></div></div></a>
</div>
<p>誰でも編集が可能な世界最大の百科事典サイトで、日本語の記事も非常に充実しているのが特徴です。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>しかしながら、結論から言えば「情報源」としてのウィキにはかなりの問題点が…。</strong></span></p>
<p>そこで、この記事ではウィキが抱える課題や問題点を指摘し、その後に有用な使い方を解説していきます！</p>

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          </div>

</div>

<h2>1．Wikipediaが抱える課題・問題点</h2>
<p style="text-align: center;"><img loading="lazy" decoding="async" class="wp-image-1192 aligncenter" src="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/06/1200px-Wikipedia-logo-v2-ja.svg_-892x1024.png" alt="wikipedia ロゴ" width="435" height="500" srcset="https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/06/1200px-Wikipedia-logo-v2-ja.svg_-892x1024.png 892w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/06/1200px-Wikipedia-logo-v2-ja.svg_-261x300.png 261w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/06/1200px-Wikipedia-logo-v2-ja.svg_-768x882.png 768w, https://to-jin.net/wp-content/uploads/2019/06/1200px-Wikipedia-logo-v2-ja.svg_.png 1200w" sizes="auto, (max-width: 435px) 100vw, 435px" /><span style="font-size: 12px;">画像出典：Wikipedia</span></p>
<p>冒頭でも述べているように、ウィキは非常に便利なサイトです。</p>
<p>それゆえに、ちょっとした調べ物から学術的な研究に至るまで、同サイトを活用したことのある方は多いでしょう。</p>
<p><strong>しかし、その一方で「ウィキを使って調べ物をしてはいけない！」と言われた経験がある方も多いハズです。</strong></p>
<p>その理由は、一般に<strong>「書き手が分からず、誰でも編集ができるから内容に信頼がおけない」</strong>と説明されます。</p>
<p>これももちろん間違いではないのですが、上記以外にも実は様々な問題をウィキが抱えているということはご存知でしょうか？</p>
<p>以下では、意外と知られていないウィキの問題点を指摘していきます。</p>
<h3>1．ウィキペディアンによる編集合戦が巻き起こっている</h3>
<p>基本的に、ウィキの良さは「誰でも編集ができる」という点です。</p>
<p>それゆえに誰もがウィキというページに手を加えることができ、情報を素早く更新することができます。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>しかしながら、厳密に言えば現状のWikiは「ウィキペディアン」という「ウィキの編集を趣味にしているネット住民」に支配されているという見方ができてしまいます。</strong></span></p>
<p>この「ウィキペディアン」という人々がどのような生態をしているかを示す有用な研究として、東工大工学部の澤田一樹氏によって書かれた<strong>「ウィキ麻薬に溺れるウィキペディアンたち」</strong>という賞論文を発見したので紹介しておきます。</p>
<p>同論文内の記載を一部引用して紹介すると、</p>
<blockquote><p>つまり、ウィキペディアンはそもそも、一般の利用者だけが甘い汁を吸っているだとか、そう<br />
いったことは考えてもいなかったのだ。</p>
<p>彼らは、&#8221;自分自身”だけのために記事を書いている。自分が楽しいからやる、自分の知識や考えを他人に認めて欲しいからやる、他人が得しているかどうかなど、彼らにとってはどうでもいいことなのだ。</p>
<p>むしろ、記事を読みに膨大な数の人々が訪れるウィキペディアは、彼の欲する場所であったのである。</p></blockquote>
<p>というように、「ウィキペディアン」という人物たちはある意味で私利私欲のために記事を書いていることが理解できるでしょう。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>これが発展してしまうと、一般に「正しい」とされる内容であっても、ヘビーな「ウィキペディアン」たちの一存によって情報が削除される、という事態が起こり得ます。</strong></span></p>
<p>気に入らない記事には「要出典」や「出典がふさわしくない」などの難癖をつけ、一日中PCに張り付いて内容を書きかえ続けることで「都合のいい真実」を生み出すことも可能なのです。</p>
<p>実際、こうした問題は現実のものとして起こり続けています。</p>
<div class="blogcard-type bct-detail">
<a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/yasuda-1" title="安田純平さんを中傷する悪意の編集相次ぐ　Wikiの危うさと復元力" class="blogcard-wrap external-blogcard-wrap a-wrap cf"><div class="blogcard external-blogcard eb-left cf"><div class="blogcard-label external-blogcard-label"><span class="fa"></span></div><figure class="blogcard-thumbnail external-blogcard-thumbnail"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://to-jin.net/wp-content/uploads/cocoon-resources/blog-card-cache/71ad425f66c1c6496fdd84e1a65b2e88.jpg" alt="" class="blogcard-thumb-image external-blogcard-thumb-image" width="160" height="90" /></figure><div class="blogcard-content external-blogcard-content"><div class="blogcard-title external-blogcard-title">安田純平さんを中傷する悪意の編集相次ぐ　Wikiの危うさと復元力</div><div class="blogcard-snippet external-blogcard-snippet">Wikipediaのジャーナリスト・安田純平さんのページの概要欄で、本人を誹謗する内容への書き換えが相次いだ。Siriは、その内容を引用して回答する事態にも。</div></div><div class="blogcard-footer external-blogcard-footer cf"><div class="blogcard-site external-blogcard-site"><div class="blogcard-favicon external-blogcard-favicon"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.google.com/s2/favicons?domain=www.buzzfeed.com" alt="" class="blogcard-favicon-image external-blogcard-favicon-image" width="16" height="16" /></div><div class="blogcard-domain external-blogcard-domain">www.buzzfeed.com</div></div></div></div></a>
</div>
<p>確かに、大多数の「ウィキペディアン」は真っ当に情報提供を行っているでしょうし、編集合戦も記事内容を精査するうえでは有用なことも多いでしょう。</p>
<p><strong>しかしながら、これだけ不安定な情報源であることを認識できれば、記事を引用したところで「信頼できるソース」と呼べない理由がよく理解できるのではないかと思われます。</strong></p>
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          </div>

</div>

<h3>2．情報が古いまま放置されていることも</h3>
<p>情報の鮮度、という点に関してウィキは一見すると対応が早そうなイメージがあります。</p>
<p>しかし、それはあくまで<strong>「人気や注目を浴びているページ」</strong>に限ったことで、そうでないものに関しては俗説や通説がいつまでたっても放置されているという事態は珍しくありません。</p>
<p>私はしばしばウィキを参考に記事イメージを構築していくのですが、特に歴史系のページでは情報の鮮度がイマイチなものも。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>当時は正しかったのでしょうが、現代で見ると非常に遅れていると言わざるを得ません。</strong></span></p>
<p>もっとも、これに関しては書籍でも全く同様の問題が起こります。</p>
<p>しかし、書籍の場合は発売年を確認すれば最新の研究動向が反映されているかどうかは明らかですし、その点はウィキと大きく異なります。</p>
<p>一応ウィキも「最終編集日」は付されているのですが、一見するとどの部分を直近に編集したのかはわからないようになっています。</p>
<h3>3．出典や参考文献が付されていないこともあり、信頼性に難がある</h3>
<p>研究論文を書いたことがある方ならば必ず知っていると思われますが、基本的に出典の明記や参考文献表の記入がなされています。</p>
<p><strong>ウィキも規則上はそれらを「必須」としている一方で、実態としてそうした情報が不足しているページは無数に公開されているのです。</strong></p>
<p>これについても、編集者が「要出典」のようなマークをつけることで一応の対策がなされていますが、マイナーなページではその作業すらも手が届いていません。</p>
<p>確かに、読者側がその点に気を配ってページの取捨選択を行なえば済む話ではありますが、この点もやはり「ウィキペディア」というサイトそのものの信頼性を損なう大きな要因になっています。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>ここまでの内容から分かる方も多いかもしれませんが、ウィキの方針は全体的に「性善説」的な色彩が強く、こと人間の悪意に対して非常に脆弱なサイトであると言わざるを得ません。</strong></span></p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>「自分」という一人称代名詞は正しい？「私」や「わたくし」との違いを解説</title>
		<link>https://to-jin.net/difference-of-i/</link>
					<comments>https://to-jin.net/difference-of-i/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[とーじん]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 20 Jan 2019 12:36:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://to-jin.net/?p=94</guid>

					<description><![CDATA[日々、何気なく話している言葉は、そもそもなぜ話されるようになったか、ということについて考えることはありませんか？ 私は時々そういうことを考えます。そういうわけで、今日は少し国語的な話として「自分は○○です」というような、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日々、<strong>何気なく話している言葉は、そもそもなぜ話されるようになったか</strong>、ということについて考えることはありませんか？</p>
<p>私は時々そういうことを考えます。そういうわけで、今日は少し国語的な話として「自分は○○です」というような、一人称としての「自分」表現について考察していきます。</p>
<p>ただ、言語論のアカデミックな勉強をしているわけではないので、基本的には推察が中心の記事になっていきます。あくまで個人の意見ということで。</p>

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          </div>

</div>

<h2><span id="toc1">1．一人称代名詞としての「自分」</span></h2>
<p>さて、みなさんは「わたし」を表現するときに、どのような言葉をを用いますか？</p>
<p>おそらく、いくつかのパターンが考えられると思います。日常の文脈では、<strong>わたし・あたし・（下の名前）・僕・俺</strong>などでしょうか。</p>
<p>少しフォーマルな文脈では、<strong>わたくし・わたし</strong>などがそれにあたるでしょう。</p>
<p>少し変わったところでは、<strong>わし・吾輩・拙者・我</strong>なども、個性を表出したい際には用いられることもあるでしょう。</p>
<p>ただし、前にも触れた<strong>「フォーマルな場面」</strong>で使える一人称代名詞は、非常に限られたものになります。</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>少なくとも、そうした社会的共通意識はあると考えるべきです。</strong></span></p>
<p>そして、そういった場面で使う一人称代名詞は、当然ある程度そういった意味の妥当性をもっているかどうかを、発言者も吟味することになると思います。</p>
<p>そうした背景がありながら、<span style="color: #ff0000;"><strong>「自分」</strong></span>という<span style="color: #333333;">一人称代名詞は、<strong>フォーマルな場面でも</strong>比較的よく用いられます。</span></p>
<p><span style="color: #333333;">皆さんの中にも、自分という一人称代名詞を使う機会はあるでしょう。ただ、個人的な感覚レベルの問題で、違和感を覚える用法によく出会う気がします。</span></p>
<p><span style="color: #333333;">例えば、<strong>「自分は～です。」</strong>というような発言を聞くと、背中を指でなぞられるような不思議な感覚に陥ります。</span></p>
<p>これはなぜなのでしょうか。その理由は、恐らく<strong>「教育の課程において、そうした用法を推奨された記憶がない」</strong>からでしょう。</p>
<p>実際に、文化庁が発表している<strong>「国語施策・日本語教育」</strong>という指針において、次のような方針が明言されています。</p>
<blockquote>
<p align="center">（１）自分をさすことば</p>
<p>&nbsp;</p>
<table border="0" width="100%" cellspacing="0" cellpadding="3">
<tbody>
<tr>
<td valign="top">1)</td>
<td>「わたし」を標準の形とする。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">2)</td>
<td>「わたくし」は，あらたまった場合の用語とする。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top"></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top"></td>
<td>付記</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>女性の発音では「あたくし」「あたし」という形も認められるが，原則としては，男女を通じて「わたし」「わたくし」を標準の形とする。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top"></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">3)</td>
<td>「ぼく」は男子学生の用語であるが，杜会人とたれば，あらためて「わたし」を使うように，教育上，注意をすること。</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top">4)</td>
<td>「じぶん」を「わたし」の意味に使うことは避けたい。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span style="font-size: 12px;">出典：「国語施策・日本語教育」</span></p></blockquote>
<p>これをみると、私の感覚はあながち間違いではないということになります。</p>
<p>しかし、本論で私が伝えたいのは</p>
<p><span class="marker-under-blue"><strong>『「わたし」、を表現するのに「自分」を用いるのは誤用！日本語の乱れ！』</strong></span></p>
<p>というようなものではありません。<span style="color: #333333;">そもそも、<strong>言葉が変化するもの</strong>であるということは明らかですし、さらにこの場合は<strong>「誤用」が既にある程度一般的に浸透している</strong>からです。</span></p>
<p><span style="color: #333333;">こういう場合、大抵はルールの方が変わります。そのため、そんなことに苦言を呈しても全く意味がないのです。</span></p>
<p>では、この論で何を問いたいのか。それは、<strong>「教育で推奨されていない言葉が、なぜフォーマルな領域で常用されるようになったのか」</strong>というものです。</p>
<p>通常、流行語であればそういった傾向に陥るのは不思議でも何でもないのですが、フォーマルな言葉の場合はわりあい古くからの慣例・しきたりが重視される傾向にあるような気がしたからです。</p>
<p>もちろん探せば他にいくらでも例はあるのでしょうが、なんせ気になってしまったので、今回は<strong>「自分」</strong>という一人称代名詞を主題に、その定着に至った理由を考察します。</p>
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          </div>

</div>

<h2><span id="toc2">2．「自分」という言葉で表現され得る意思</span></h2>
<p>まず、二つの例文をもとに、その<strong>イメージの違い</strong>を考えてみましょう。</p>
<div class="success-box">
<p><span style="color: #333333;">「いえ、その一件は<strong>私に</strong>全責任があります。」</span></p>
<p><span style="color: #333333;">「いえ、その一件は<strong>自分に</strong>全責任があります。」</span></p>
</div>
<div>まず、この例文が発される<strong>背景</strong>を考えてみましょう。恐らく、何か重大な失敗をしてしまった直後に、目上の人間に対して責任の所在を明らかにしているような絵が浮かんでくるのではないでしょうか。</div>
<div></div>
<div>さらに、「<strong>いえ」</strong>という逆説表現が文頭にありますので、目上の人は同情の言葉をかけていたと想定できます。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #ff0000;"><strong>さて、ここまでは大抵の人が同じ結論に至るのではないでしょうか。しかし、この両者には決定的に異なる部分があります。</strong></span></div>
<div></div>
<div>それは<strong>「私」</strong>と<strong>「自分」という部分</strong>です。この違いが、<strong>微妙なニュアンスの差</strong>を生み出しているような気がしませんか？少なくとも、完全に同じではないと思います。</div>
<div></div>
<div>個人的には、前者の場合は<strong>政治家や医師</strong>など、社会的にいわゆるインテリと呼ばれる階層の人間から発された言葉に感じられます。</div>
<div></div>
<div>一方で、後者の場合は<strong>軍人やスポーツマン</strong>など、優れた肉体や闘争心をもっているタイプの人間から発された言葉に感じられます。</div>
<div></div>
<div>これは別にこう感じなければならないというものでもないでしょうが、少なくとも「私」と「自分」は<span style="color: #ff0000;"><strong>完全に別のニュアンスを表現する</strong></span>ために使い分けられているという事実には同意が得られやすいかもしれません。</div>
<div></div>
<div><span style="color: #333333;">ここには、「私」と「自分」が言葉としてもっている印象の違いが作用しているようにも感じられます。では、次にその違いを分析していきましょう。</span></div>
<h3>1．「私」の場合</h3>
<p>私（わたし）という表現は、現代の日本語では、一般的に使用される表現の中でも、かなりフォーマルかつ活用範囲の広い部類に入ると思います。</p>
<p>社会のどういった文脈においても使える一方で、<strong>力強さや荒々しさを表現することが必要な場面で用いられることは少ない</strong>ようにも感じられます。その場合、大抵は「俺」や「僕」が使われるでしょう。</p>
<p>そういった文脈で使用されないことが影響して、個人的には万能ではあるがやや<strong>上品な表現</strong>という印象を受けます。</p>
<p>そのせいか、<span style="color: #ff0000;"><strong>フォーマルな場面で力強さや荒々しさを表現したい場合</strong></span>には、<span style="color: #ff0000;"><strong>「私」</strong></span>が<strong>使用されない</strong>のではないでしょうか。</p>
<h3>2．「自分」の場合</h3>
<p>自分という表現は、書き言葉としては室町時代より使われていました。江戸時代に入ると、武士の書き言葉としての地位を確立します。</p>
<p>そして、明治以降になって大日本帝国軍が組織されると、そこでは話し言葉として使用が奨励され、かつ<strong>目下のものから目上の者へ用いられる</strong>という用法も確立しました。</p>
<p>しかし、戦後になるとそうした用法は公式に薦められることはなくなり、現代では自衛隊でも<strong>「私」</strong>という表現が用いられます。</p>
<p>ここからわかることとしては、特に近世以降<strong>「自分」</strong>という一人称代名詞が<span style="color: #ff0000;"><strong>「武威」</strong></span>と密接な関係にあったという事実でしょう。</p>
<p>さらに、世間一般の「礼儀」には、武家由来のものも多いです。つまり、そういった歴史が影響して、上記のように現代でも<span style="color: #ff0000;"><strong>フォーマルな場面で力強さや荒々しさを表現したい場合</strong></span><span style="color: #333333;">に<strong>好んで用いられる</strong>ようになったのではないでしょうか。</span></p>
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          </div>

</div>

<h2><span id="toc3">3．おわりに</span></h2>
<p>個人的に、まさかこれほど<strong>スッキリした論が展開できるとは思っていませんでした。</strong></p>
<p>なんとなく気になったことを調べていただけなのですが、それなりの完成度になったのではないかと思います。</p>
<p><span style="font-size: 12px;">【参考資料】</span><br />
<span style="font-size: 12px;">木川行央「一人称代名詞としての「自分」」、神田外語大学学術情報リポジトリ、2011年。</span><br />
<span style="font-size: 12px;">文化庁「国語政策・日本語教育（１）これからの敬語」、文化庁、1952年。</span></p>
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